鮭の子漫画

惰性の漫画と日記を書くの

鏡の中にたまに入れるよ

 冗談ではない。たまに入れるのだ、鏡の中に。

 その技を僕に見せつけてくれたのは、藤林くんだった。「騒ぎになるから、お前にしか見せていない」と藤林くんは言い添えてくれた。

 ああ、温厚質実、樹木のように大人しく、白金育ちであるかのように品よく生きていてよかった。掃除の時間にホウキを振り回したり、女子の近くで大声で喋ったりするような輩を下に見てきたことが、報われた。僕は、藤林くんに選ばれたんだ。人生で初めて承認欲求を満たされたときだった。それからというもの、成長期と共に自己顕示欲をニョキニョキ伸ばし、就職で上京するときには住むエリアに見栄を張るようになり、家賃の支払いに苦しむことになるのだが、それは追々説明する。 

 藤林くんが鏡の世界へ案内してくれたのは、六時間目の授業が終わったのに、まだ外が明るかったときのことだった。メルヘンな光景だったので、鮮明に覚えている。

 藤林くんは、トンッと駐車場の鏡に体当たりした。縁石を跨ぐかのように静かで慣れた動きだった。

 普通なら鏡に押し返されて肩を痛めるわけだが、藤林くんは鏡の奥に入り込んだ。というより、鏡に写っていた像だけ残り、この世界の藤林くんが消えたように見えた。

 中から手招きされたので、僕は右手、右足、頭の順で鏡に入ってみた。見慣れた通学路だが、左右あべこべで妙な感覚だった。いつもと違うスーパーに来て、卵売り場がどこか分からなくなるような感覚に似ていた。

 鏡の世界には僕らを除いて誰もいなかった。高校生だったら喫煙、飲酒、下着探しなんかをして楽しんだだろう。でも僕らは英語すら習っていない年齢で、数学じゃなくて算数で、うすしお味よりコンソメ派が主流だった。

 だから、とりあえず大きな声を出した。それだけで、僕と藤林くんはゲラゲラ笑った。人の家に落書きもした。僕は絵の上手さで定評があったのだが、鏡の世界だとなんだか思うように形を取れなかった。対して、なにをやっても不器用な藤林くんの方が絵を上手く描けていた。

 この文章を書いていて気づいたことだが、おそらく右脳と左脳の役割も、あべこべだから入れ替わっていたのだと思う。

 一通り遊びつくして、道路の真ん中で休憩していたとき、僕は突然閃いてチョークを握った。女の子は経済力に惹かれるんだ、と初めて気がついたときのようにビビっときた。

 僕はチョークでたくさんの四角を書いた。そうして確信を得た。

「どんな図や地図も、必ず四色で塗り分けられる」

 もちろん僕はまだ、四色問題の存在を知らない。

 藤林くんは察したように、道路に歪な日本地図を書いて、都道府県ごとに境界線も引いた。学校ではちょうど、各県庁所在地を暗記させられていたため、彼でもそれなりに書くことができていた。東北は三県で、九州は九県あった。

 そして僕は得意げに、四色で塗り分けた。次いで藤林くんはドラえもんを描いた。輪郭の重なり方がおかしかったが、許容した。これも簡単に四色に塗り分けられた。

 そして僕は、かなり簡単な式と文章で四色問題の証明までをやってのけた。

 現実でそれを発表すれば、世界は震撼し、熱気で二酸化炭素濃度が上がり温暖化が加速し、北極の氷が溶けてロシア、アメリカ、カナダで利権の取り合いが勃発するわけなのだが、大丈夫だ。鏡の世界から戻った僕にもう一度証明する左脳はない。世界の秩序は保たれた。

 四色問題の重要性について知った大人の僕が、もう一度鏡の世界に行けばよい話なのだが、それはできない。僕が鏡の世界に入れたのは、その日限りのことだった。

 藤林くんが言っていた「たまに」がどの頻度なのかを聞いておくべきだった。でももう聞けない。

 藤林くんが、ある日失踪したからだ。

 僕は時折鏡の中を覗いたが、彼を見つけられることはなかった。

 中学の頃、ある一報が届いた。

「失踪してた藤林くん、ユニクロで死んでたって。柱にある大きな鏡に激突して、鏡も割れて、色々打ちどころが悪かったみたい」

「そんな馬鹿な話、あるわけないじゃない」 

 皆、失笑していた。

 だが、僕には分かる。そんな馬鹿な話があるんだ。ユニクロのデカ鏡衝突エピソードが僕のところに舞い込んでこなければ、全部が夢ということで片づけられた。僕はそれからずっと、鏡を見つけては人差し指で触れるという行為を実行し続けている。触らなきゃ気が済まない身体になってしまったのだ。

 一生これか。

 

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おわりっ